黙して語らず我が人生よ
動きがほとんどなく
台詞もさほどおおいわけじゃない。
声を特別はりあげるわけでもなく
大袈裟な表情で感情の起伏を表してもいない。
言葉の抑揚を変えたり
ちょっとした目の動きだったり
口の開きであったり
間の取り方であったり
そこから移り動く感情の変化が感じ取れて
胸が熱くなる。
制作統括の果子氏の言葉
「慶喜の表に出せないさまざまな苦悩や思いを、渋沢を見つめる表情だけで表現しているんです。非常に奥行きを感じます。誰にでもできる芝居ではありません。草なぎさんは、2、3秒黙っている表情だけでも、その奥にある気持ちや、抱えているものを視聴者に想像させる芝居をしてくださる。せりふがなくても、いろいろなものを語りかけてくれる俳優さんです」
今夜の草彅慶喜に
これほど的確な言葉はないよね。
と思いながら、
でも、私って
そんな思いは、これまで何度となく書いてきてるよ。
またですか。て、自分に突っ込みたくなる。
それも仕方ないじゃない。
だって
宮藤官九郎さんじゃないけど
草彅剛に限界はないんだから。
「中学生円山」を宮藤官九郎さんが監督したとき、
草彅剛起用理由に
"団地での平凡な感じのシングルファザーと、妄想の中での強い表情、演技が両方要求される役。それを満たすのは草彅剛さんしかいないと思った"
と言ってたんだよね。
果子さんも、
"どの史料を読んでも
徳川慶喜という人物はなにを考えているのかわからない。最後まで真実を語らず、腹のなかで感情を押し殺してた人。そんな難しい役を演じられるのは草彅剛さんしかいない。"
と、コメントしてた。
"草彅剛しかいない。"
制作に携わる人たちにそう思わせる力が剛くんから放たれてるのを
当の本人は全く気付いてないんだから面白い。
それだから、その魅力は色褪せるどころかますます輝きを増していくのも当たり前なのかもしれない。
「私は輝きが過ぎるのだ」
と言ってたときもあったのに。
6畳ほどの狭くて古ぼけた、座布団も用意されてない、火の気もほとんどない、寒々とした部屋に姿を見せた草彅慶喜には、
生気が全く感じられず、
背中を丸めた立ち振舞いからは以前のような凛々しさはない。
目映い光も射し込まない。
今慶喜が置かれている過酷な現状を瞬時に悟った
栄一はどれだけ心が痛んだことか。
以前にも謹慎したことあったね。
あのときも己を極限にまで追い込んでたっけ。
そして、父斉昭の死に親不孝ものだと自分を責めむせび泣いた。
あの時の声が耳に残って離れない。
栄一の
「どんなにご無念だったことでございましょう」
の言葉を背に受けて
歩みをとめる。
顔がクローズアップ。
この瞳。
遠い目。眉間の皴。固く閉じた口。
そして光と影。
その間わずか数秒。
黙ったまま
静かに去っていく。
慶喜は、全幅の信頼を置く栄一にも何も語らず
すべてを自分一人の胸に秘め、孤独を貫き通すお覚悟をされたんですね。
台詞はない。
自らの演技で
その奥にある気持ちや抱えているものを視聴者に想像させる。
いつだって
草彅剛という役者は、
その時その現場で生まれてくる感情を大事にして
そのままの自分をさらけ出していく。
作られたものじゃなく、自分の内から沸いてくる感情に素直に身を任し流れのままに。
だけど、ただ流されてるんじゃない。
止まる時にはしっかりと止まるし、道草もすれば
近道もする。
必要なのはそこで生まれた感情。
余計なものはどんどんそぎおとしていき、
残るものは真の姿。
実に素晴らしい。
そうだ、円山のときに
クドカンが草彅剛の印象について
「いい意味でつかみどころがないというか、本当は何を考えているのかな、みたいな余白を感じる」
と言ってたんだよ。